タイだ。

タイで外こもりニートの日記帳。

スワンナプームって何

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ニューマンダラによる「カンボジアはタイの一地方では無い」
Cambodia is not a province of Thailand

バンコク近郊の空港の名前にもなっている「スワンナプーム」。それはタイの百年以上の間、重要なプロパガンダの一つであった。カンボジア、ラオス、ベトナムでさえもかつてはタイの一部で有り、数々の戦争によってタイはそれを失ったのだ、と主張するのに使われてきたのが「スワンナプーム神話」である。その神話の起源から幾つかの変質を経てタクシン時代のタイ政権による再包装、現在のタイ-カンボジア国境紛争でのその異様な役割についての記述。

以下虫食いで抜粋:

19世紀以前は「スワンナプーム」という言葉を知るタイ人はおらず、ほとんど誰もアショーカ王の名も知らなかった。インドの皇帝アショーカの碑文が1837年にジェームス・プリンセップにより英語に翻訳されると、東南アジアの人々は仏教の起源に興奮した(そして歴史を書き換え始める)。ビルマ、タイ、ラオス、カンボジアの各地で新たな神話が書かれた。古代インドの皇帝が仏教の伝道師を自らの国へ送った証拠とする為である。ビルマの人々は「ビルマの仏教が(アショーカが生きている間に)インドから直接来た事を示す発見である」と主張し、タイの人々は同じ文のくだりを「ビルマ経由ではなくタイに直接伝わった」と解釈した。(略) 現在もタイ人のほとんどが「アショーカ」はタイに仏教を与えた王であるという漠然とした感覚を持っている。

「スワンナプーム」という語はプリンセップが訳したデリーの碑文の中にも、その他の主なアショーカの碑文にも現れていない。同時代の損傷の激しい碑文の中に有った(その碑石では判読可能な他の語はほとんど無い)。

プロパガンダで見過ごされている単純な事実、アショーカが生きたのは紀元前260年、2200年以上前である。これはカンボジアで見つかった最も古いパーリー、サンスクリット語の碑文の1000年以上前の事である。つまり東南アジアに仏教が伝わった考古学的な証拠となる碑文で最も古い物の遥か何世紀も前。その頃はタイランドにタイ人はおらず、カンボジアにアンコールワットは存在していない(略)

ほとんどの人々は千年を超える程の期間を想像するのは困難だが、これはほとんどのプロパガンダに論点を与える基本的な事実である。仮にアショーカが本当に現在のビルマやタイに伝道師を送ったとして、紀元前3世紀の”そこ”で誰が出迎えたのか?

アショーカとタイとの間に交流はない。碑文から神話が広まり、現在の”伝承”になってしまった。一部の人々はその原典をしっかり研究し、翻訳は約百年前に終わっている。

タイ人は、ソーナとウッタラのインドからタイへの旅がアソーカの勅令に記録されているというが、原典を読んだ人なら誰でもこれが間違いであると知っている。この話は元々中世スリランカの神話であり、タイとは関係無い。タイの「ソーナとウッタラ」のプロパガンダは1908年に英語で出版された物が元になっていると推測される。パーリー語よりも英語を読む方が簡単なので、これはよくあるパターンなのだ。元となっているストーリーがいかに馬鹿げたものか気づいた人には、それを使って政治的なイデオロギーを創り上げるというのは更に馬鹿げて見えるだろう。

ダムロン王子は明らかにナショナリスティックに(人種差別的に)タイの歴史を書いた。「モンゴルを起こし、雲南の王朝に移住、Nanzhao王国の統治者だった」と。雲南にその王朝は実在したがタイ人が統治したなどというのは架空の物語である。モンゴルがタイ人に統治されたという事実も何の証拠も無く、逆に言語学的にも考古学的にもそれを否定する証拠なら有る。仮にその歴史が正しいとしたらインドのアショーカの時代に仏教が伝わるのが不可能になってしまう。タイ人の学者も多くこの矛盾に言及しているが、その批判が共有されるのは学者や専門家での間だけである。

ダムロンの「スワンナプーム」の論理では、タイ人は中国から南下して東南アジアの大きなエリアを征服したという。この話の利点はタイが始めたビルマ統治下のシャンとの戦争を正当化するのに使えた事。彼の最も有名な本は1917年出版の「タイ-ビルマとの戦い」。その論理のほとんどは反ビルマ人と反中国人でカンボジアには興味がない。1931年、ルアン・ウィチットワタカンは別の版のタイ歴史を書き、舞台劇や歌を作ってラジオで放送され、タイの大衆文化や書かれた歴史の”上位の文化”に大きな影響を与えた。ここでダムロン版の歴史からの変遷が見られる。(略)

概してカンボジアとは何なのか、カンボジア人とは誰なのか、なぜロッブリー(現在のタイの中心の右側)のような土地に明らかな古代クメール起源の跡が見られるのか、等ついて一貫した説明をする努力はなされなかった。(略)

第二次世界大戦に向かう間、タイの歴史は何度も書き換えられた。日本と結託して僅かな期間シャンを占領した時には地図を出版して「そこは元来タイ人の祖国である」という宣伝活動を行った。1941年のフランスとの勝利後がスワンナプーム・プロパガンダの新しい波となる。1941年から1947年にかけてはタイによる領有権の主張を正当化するのに充分なプロパガンダを怒涛の勢いで創りだし、第二次世界大戦終了時にはフランス領インドシナの全てを支配したことが有ったかのようにタイ人が信じるに至った。しかしながら1947年に全てが変わる。イギリスはビルマと条約を結んでシャンを支配するというタイのもくろみを断ち、フランスはラオスに独立国家の創設を認めた。同じ年、タイではクーデターが起こり国連との交渉を始める。

1947年のこの交渉はプレアビヒア周辺地図の事よりも遥かに重要だった。タイ政府は、「タイは歴史的にラオスとカンボジア(の少なくともバッタンバン州)の統治権者であり、ラオスとカンボジアが別個の国であるというのはフランスが世界を騙しているのである。従ってフランスが出て行くならその県をタイに返還するべきである」と主張。もちろんそれはただの神話(スワンナプーム神話)であった。この主張でベトナム国境までタイの領土を拡大する事ができると踏んだが、委員会は最終的にタイの主張を全て却下した。(略)

1893年、フランスはタイに勝利し、1896年までのイギリスとの交渉でタイとカンボジアの国境を決める。当時イギリスとフランスはシャンと雲南の支配に大きな関心があった。そしてタイもカンボジアもこの交渉に口をはさむことなく1896年に決定。

現在、内陸地のシャンと雲南を隔てるほとんど通行不能な山々に地政学的な重要性があるとは想像し難いが、1870年代からイギリスもフランスもアヘン貿易の為にこの地域に雲南への鉄道を敷きたいと思っていた。その時代の政治的関心事はダムロン王子のプロパガンダに現れている。フランスとイギリスが貿易(特にアヘン)の支配の為に戦争になるのではと多くが恐れているその時に、バンコクから北を見てシャンを支配して同時に中国へ拡大するというもの。(略)

1941年、日本人による占領に先立ってタイ軍はフランス軍を破った。カンボジア人がもっとよく覚えていそうなのは1942年のフランスへの反乱。どちらの出来事も東南アジアでのフランス軍の弱さを示している。その後間もなくフランスはヨーロッパでドイツに、アジアでは日本に敗れた。日本が撤退した後に再び支配しようとするも今度はコミュニストに敗れた(かつてのフランスの植民地で)。これらは1941年~54年の13年間での軍事的に重大な3つの敗北と見なされる。この単純な事実はこの歴史や現在の国境紛争に関する記述で省かれがちである。きまりが悪いのか、あるいはその顕著な点が筆者達にはっきり見えないのか。しかしこれは非常に重大な点である。なぜなら1947年の国連の決定はまさにこの背景でなされたからである。

対照的に、他の協定(や地図)は比較的取るに足らない物で、1986年のフランスとタイの協定は1902年に取って代わり、1902年の物は1941年に破棄された。

概してどの協定においてもカンボジア側の主張は無く、1954年の停戦でもフランスはカンボジアに意見さえさせなかった。つまりいかなる会議においても、スリン県がなぜタイの一部と見なされるのかという明らかな疑問を呈する者は誰も居なかった。交渉はヨーロッパの帝国主義者の軍による脅威の元で行われ、その脅威が消えると彼らが押し付ける国境の論理もまた消え去った。

フランス帝国の衰退はカンボジアとラオスに不合理な国境を残し、タイにはアイデンティティーの危機をも残した。タイ人は彼ら自身の「タイ人であること」という観念と、彼らを取り囲むもっと古くからの文明の遺産(ロッブリやスリンに留まらず首都近郊のナコンパトムにでさえ)との一致の為にもがいている。タイの中心に置かれた、明らかにタイ以前の文明の証となるモニュメントの横に、プロパガンダとして提示された嘘の歴史が不安そうに存在している。

これらの矛盾のいくつかは最も最近書き換えられたタイ歴史の中にも現れている。
(略: タクシン政府時代に建設された博物館の話)
博物館の中心コンセプトは「スワンナプーム」。タクシンはこのアイデアが好きで後に空港もこの名前にした。博物館は古いプロパガンダからの大嘘を繰り返している。ソーナとウッタラという二人の僧侶がタイに仏教をもたらしたというアイデアもをそれに含まれる。同時にダムロン王子をスワンナプームという歴史概念の発案者として、館長による賞賛も公式に表明している。

タイ歴史のこの書き直しはヨーロッパの学会の傾向への反応でもある。古いプロパガンダの「人種の純粋さ」に対し、代わりに調和的な「多様な人種」といったメッセージである。対してスコータイやラムカムヘン王に関する協調は劇的に減っている(ラムカムヘン王については歴史的に疑わしく、物語的なもので有ると考えられている)。

カンボジアの横に古代の帝国としてタイランドが存在したと証明する代わりに、単に近代以前そこには帝国も国家も無かったと表明している。彼らは一連の街の地図を書き、それらは全て「スワンナプーム」であったと主張している。新たに神話を発明するよりは温和な方法に見える。しかしそれはカンボジアもラオスもフランスが盗むまでは存在しなかったという第二次大戦時代の政治的主張をまだ支えているのである。

新たなプロパガンダは以前のような人種的に優れたタイ人が南へ移住して東南アジアを制圧したというような攻撃的な考えを避けている。が、同時に誰かがどこかに移住したとか、誰かが誰かを制圧したとかいうタイムラインを明言するのも避けている。実際に戦争、奴隷、封建主義がタイ歴史の重要な部分であった事を認めず、代わりに国は貿易、技術、民族の調和で成り立っているというメッセージとして、スワンナプームという古い物語が語り直されているのである。

政治的意図は変化したがスワンナプーム神話はかつて以上に目立っている。タクシン政府はこの表現に新たな推進力を与え、突出させ、新世代のプロパガンダとして示した。バンコクの空港に到着すれば誰もがこのスワンナプーム神話に遭遇する事になる。綴りが変だったり発音が間違っていたりするかもしれないが。(略)

これまで述べたように1930年代から1947年、バンコクから東を望むという意図がプロパガンダに反映されていた。その時はフランス帝国の衰退と共にタイの領土を東に広げる事が可能に見えた。もちろん東南アジア地域での日本帝国の急激な栄華盛衰も拡大主義者の欲を誘った。

タイの国力を(一瞬の間)ビルマに、また1941~6年ラオスとカンボジアの領土にまで拡大し、1958年までその影響を残したピブン・ソンクラーム大将。1950年代の終わり、フランス軍は去り、アメリカ軍が存在感を増す。タイ側の視点で言うと、反共産主義の名の下にタイの領土にまで飛び火してきた戦争が続いた。

1949年~1961年、アメリカはタイ北部に住む国民党軍を支持。アメリカの支援下での共産主義中国との戦争、という想像をしていたタイ政府とっては、ダムロンが想像した「雲南にあるタイの祖国と呼ぶ所を再び征服する戦争」という古いプロパガンダが役に立つように見える。(略)

タイのプロパガンダは常に時代毎に特定の政治目的を支える為に書かれてきた。繰り返される手法はつまり、征服してもっと領土を広げるという野望をあたかもそれが元々タイの領土で有ったかのように正当化する為に「スワンナプーム」が使われてきたのである。

1984年、タイはラオスに侵入、1987~8年に大きな戦争を起こし、これをフランスが盗んだ領土を取り返す為であると正当化した。

ここで思い起こすのは、タイ軍の視点では2010年のカンボジア国境紛争は1988年のラオスと同様のものという事である。彼らは寺院の周りの境界線だけの問題とは見なさず、国境線全体が非合法だと考えている。寺院は国境線を変えるきっかけに過ぎない。軍の中のナショナリスト達(またはプロパガンダを信じる者達)はバッタンバン州がタイランドの失われた領土で取り返すべきものと思っている。カンボジア全てがタイの一部だと思っている者も珍しくない。これもスワンナプームの嘘の歴史がもたらした当然の結果のように見える。(略)

カンボジア人の視点で北と西を見れば、民族的にはタイランドの大きな部分が今もクメールである。300年の征服したり征服されたりの歴史にも関わらずである。多くのカンボジア人がスリンはごく自然にカンボジアの一部だと思い、そしてタイ人はバッタンバンはごく自然にタイの一部だと思っている。アメリカ、国連、タイ軍の全てがポルポトを支持していた間には、タイ領の難民キャンプで多くのカンボジア人が育っている。紛争国境地帯の両側に多くの家族の結びつきが有るのはその為である。(略)

これらの歴史とそれを歪めて広く浸透するプロパガンダを見ると楽観的にはなり得無いが、国境の両側で過ごした長い日々の経験から言えば、イサーンの田舎でもラオスでもカンボジアでも、人々はこれ以上の戦争を望んでいない。現在の情勢が悪くても、ほとんどの住人にとっては過去50年間以上よりもまだずっとましなのである。いくつもの歴史の大悲劇の中で彼らがそれを乗り越えられることを示したのだ。

(原著者のEisel Mazard氏 http://www.pali.pratyeka.org/)

ちょっと虫食い過ぎたかも。

追加 8-29: 一部ミスを修正。

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Written by thaida

2010/08/23 @ 20:34

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